人と関わるのは、めんどくさい。
他人と関わらず、毎日淡々と自分のことをこなしながら思索にふける…
そんな生活ができないものだろうか。
「そうだ、自給自足生活をやってみよう」
まずは食べ物を自分で作り出すことができるようになればいいんじゃね?
ぼくが農業に興味を持ったきっかけは、こんな感じでした(実際には、「農業」というより、「農的生活」なのですが…)。
会社勤めに疲れたサラリーマンにありがちなパターンです。
「人生は金じゃない!貧しくても自分の理想の暮らしを手に入れることができれば、幸せになれるはずだ!」みたいなやつ。
実際、子供の頃から物欲や金銭欲は極めて低かったし、多少不便な生活でも幸せになれる自信がありました。
が、しかし…
「自給自足生活」は(少なくとも自分には)無理だということにすぐに気づくことになりました。
まずは本を読んでみる
ひとまず、農というものを知らねばなるまい…
そう思い、実態がどんなものなのか、本や動画から学ぶことにしました。
その中のひとつが久松達央さんの著書、「キレイゴトぬきの農業論(新潮新書)」。キレイゴト抜きなんだから、農業の実態もよく分かるんだろうな~、などと思って読み始めました。
読み進めていくうちに、「食べ物を自分で作る生活」「農的な暮らし」に関する記述にも行き当たりました。
その中に、どうにも引っかかる記述があったのです。
【以下、本文より抜粋】
大先輩の農家から、こんな話を聞いたことがあります。
「自分は20年経済農業を頑張って、子供も育て上げた。建具屋の仕事も覚えて、いよいよ困った時には、まとまった現金収入を得られる業も身につけた。これから、ようやく自分の楽しみの自給的な暮らしに入って行くんだ」
はぁ?
なんで自給的な生活をするのに、農業経営が必要なの?
そもそも営農する気はないんですけど。
言ってる意味がわからん。
この文章を読んだときは、そう感じました。
ただ、なんだか引っかかるところはありました。
あったのですが、「よくわかんないけど、まあいっか」と思い、それ以上深く考えることはしませんでした。
自給自足、無理じゃね?
気を取り直して、自給自足に何が必要かをひとつずつ考えることにしました。
まず、食べ物。
農業関係の学校に授業見学に行き、訊いてみました。
「学校で1年間勉強したくらいの知識で、自分一人が食べるくらいの食料を作ることは可能でしょうか?」
これは「十分可能」とのことでした。
農地もごくごく狭い面積で足りるらしい。
第一関門クリア。
照明はランタンでいいとして、空調はどうよ。
長野県とか、夏が涼しい場所に住めば、クーラーは不要。
ただ、冬の寒さが問題だ。
そうだ、薪を調達しよう。
薪の調達の仕方を調べます。
- 木を伐採する
- 運びやすい大きさに切り分ける
- 軽トラなどで運ぶ
- 薪割りを…
って、無理。
自分で山を所有するところから始めないといけないではないですか。
しかも、この作業してる時間は畑仕事できないではないですか。
薪を調達しようとすると、畑仕事が滞る。
畑仕事をしようとすると、薪の調達が滞る。
このあたりで気づきました。
自給自足生活とは、
人間本来の生き方から逸脱した生き方である
ということに。
価値交換こそ人間関係の本質
先ほどの例で言うと、
野菜の栽培が得意な人は野菜を育てる
木材を運ぶための体力がある人は薪を調達する
など、人間はそれぞれが得意なことで貢献しあって生きています。
他にもいろいろあるでしょう。
調理するのが得意な人、工具を作るのが得意な人、子供の世話をするのが得意な人…などなど、人間は常に何某かの価値交換をしながら生きています。
これは、貨幣というものがあろうとなかろうと変わらない真理です。お互いに価値交換をせずに生きていけるのであれば、人間は集落を形成することなく、基本的に単独行動をとって生きているはずですが、実際にはそうなっていません。
ただ、現代社会では、ほとんどの価値交換が貨幣を介して行われている、というだけの話です(「お金にならないものは価値がない」という発想もこのあたりから出てくるように思いますが、ひとまずその話は置いておきます)。
そう考えると、自給自足生活というのはすなわち、「私は、他人との価値交換をまったくせずに生きていきます」という生活スタイルに他なりません。
「人間本来の生き方から逸脱した生き方である」と書いたのは、そういう意味です。
自給的生活は「道楽」
では、他人との価値交換をやめて生きていけるのは、どんな人か。
それは、すでに何らかの「余剰」を持っている人です。
したがって、自給的生活とは、余剰がある人のみが楽しむことのできる「道楽」である、とぼくは考えます。
ここで「自給自足」ではなく、あえて「自給的」という言葉を使ったのは、完全なる自給自足は不可能である、と思うからです。
完全なる自給自足とはつまり、他人との価値交換を完全にやめることを意味します。お金で肥料を買う、お金で鍋を買う、などしていれば、それは自給自足とは呼べません。他人から何らかの価値提供を受けているからです。
だから、「他人との価値交換を一部だけやめさせてもらいます。あくまで遊びとして」という意味をこめて、「自給的」という言葉を選びました。
自分にとっての「最後の場所」とは
人生において「余剰」というと、一般的には家計における貯蓄を指すことが多いように思います。
しかし、ぼくは「余剰」の意味をもう少し拡大して、
その気になれば、いつでも他人と価値交換できる状態
と考えます。
どういうことかと言うと、いわゆる貯蓄だけでなく、
いつでも自力で価値を生み出し、他人に提供することができる(=社会貢献できる)能力
を含めての「余剰」です。
これは、「農」のカテゴリーで言うと、
- 食べ物を生産する術を知っており、実践できる
- 生産したものを販売する術を知っており、実践できる
- それらを経営として成り立たせることができる
能力である、と言えます。
ここまで考えて、冒頭で紹介した久松さんの言葉の意味が少しだけ理解できたように思いました。
大先輩の農家から、こんな話を聞いたことがあります。
「自分は20年経済農業を頑張って、子供も育て上げた。建具屋の仕事も覚えて、いよいよ困った時には、まとまった現金収入を得られる業も身につけた。これから、ようやく自分の楽しみの自給的な暮らしに入って行くんだ」
ここで登場する「大先輩の農家」は、おそらく
- 20年続けてきた経済農業で得た貯蓄がある
- 子供も独立して、出費も少なくなった
- 建具屋としてのスキルを身につけて、いつでも他人に価値提供できる状態である
という条件がそろっている…
だから、楽しみとしての「自給的な暮らし」ができる
ということをおっしゃっているのだと理解しました。
ぼくが目指すのも同じく、道楽としての自給的生活です。
「ここにたどり着けば、自分は幸せになれる」と自信を持って言えるゴールです。
ぼくにとっての「最後の場所」とは、そこなのです。
そのためには、まずは食べ物を自分で栽培する技術が必要になります。
さらに、生活の豊かさを確保するためには、農産物にも一定の品質が必要になります。
さらにさらに、「道楽」とは、余剰のある人のみが楽しめるものです。余剰がなくなれば、「道楽」をやめなければなりません。「自力で何らかの価値を生み出し、他人にそれを提供できる能力」は、そのときのための保険ともなります(先ほどの大先輩の農家でいうと、建具屋としてのスキル)。
ぼく自身にあてはめると、このようになります。
野菜を栽培する能力が目的達成の「手段」のひとつであり、
経済農業ができることが「手段」を身につけたと言える「目安」であり、行き詰まった場合の「保険」である。
最後の場所は決めました。
…とデカイことを言っていますが、まだ学校で農業を学び始めたばかりです。
やってみるとね…面白いんですよ、これが。
自給的生活がゴール、とか言いつつ、社会貢献の楽しさにハマって、数年後にはまた違うことを言っている可能性もありますね(笑)。