人生のプレゼン ~両親への手紙をそのまま掲載してみた~

手紙を掲載することにした経緯

今の仕事を辞めて、これからどういう生き方をするのか。親に向けて書いた手紙を原文そのままで掲載してみました。

 

当然ながら、もともとこのブログに掲載するつもりはなかったのですが、書き終わった後に読んでみると、「これ、他の人に読んでもらえたら、ちょうどいい自己紹介になるんじゃね?」と思ったので、思い切って掲載することにしました。

 

最初は両親がどういう反応をするか、かな~り不安でした。しかし、意外や意外、わりとすんなり認めてくれました。

 

よくよく考えてみると、自分の家族や友人に対して堂々と説明できないような生き方は、世間一般の人にも到底受け入れられるはずはありません。それは生き方だけではなく、モノやサービスでも同じだと思うのです。つまり、自分の家族や友人に対して堂々と売ることができないモノやサービスは、世間一般の人にも受け入れられないのではないかと思うのです。

 

そういう意味では、自分が生き方を変えようとするとき、ビジネスを始めようとするときには、

・なぜ自分がそうするのかを
・家族や友人に対して
・嘘偽りなく
・文章の形で

伝えてみるのは案外有効なのではないかと思いました。

 

書き言葉にするのがなぜ大事かというと、話言葉と比べて曖昧な表現を避けやすいからです。

 

では、以下、ぼくの人生のプレゼンになります(手紙の原文そのまま)。

 

働くことを通じて幸せにならなければならない

仕事を辞めることについて、事後報告になってしまって申し訳ないです。

 

これからどんな生き方、働き方をしたいのか、結論から書くと、

・自分の得意なことで人に貢献する生き方

・自分が死んだ後に何かを残せる生き方

をしたいと思っています。

 

もともと高校生あたりから世の中に対して漠然とした違和感みたいなものはあったのですが、30歳を過ぎたあたりから徐々に違和感が増してきました。で、10年以上「なぜ幸せになれないのか?」と考えました。その結果、最も重要なのは行為に対する意味付けである、という結論に達しました。その中でも特に大事なのが、「働く」という行為にどういう意味付けをするのかということです。

 

例えば、収穫した野菜を洗って袋に詰めるという行為があったとします。この行為に対して、「自分の生計を立てるため」という意味付けしかできないのであれば、その仕事は途端にやっつけ仕事になってしまいます。一方、野菜を洗って袋に詰めるという行為は同じであっても、「貧困者を支援するため」という意味付けができれば、働くことによって得られる幸せの度合いはまったく違うものになるはずです。

 

世の中の少なくない人たちは、「その仕事を通じて、どれだけ収入を得られるか」「どんな経験を得られるか」という発想で仕事をしていると思いますが、その発想自体がすでにセコイ。働くという行為が(ギブ&テイクの)「テイク」する手段になってしまっています。自分の働き方もそうだったと思います。そりゃあ幸せになれるわけないわな、と気づきました。

 

「自分が何かを得られる場所はどこか」ではなく、「自分が貢献できる場所はどこか」という発想で働かない限り、働くことを通じて幸せにはなれないし、そもそも人間は働くことを通じて幸せになる生き物だと思います。働くとは、それぞれの人が自分の得意なことで他者に貢献するという行為そのものであり、人間社会の在り方そのものです。働くことを苦痛に感じている限り、その人は本当の意味で幸せにはなれないと思います。

 

自分の特徴が長所になる環境が大事

ここまで考えて、またひとつ疑問がわいてきました。お金をもらえているということは、何らかの形で人の役に立っているということである→今現在、自分は人並み程度にはお金をもらえている→つまり、自分は働くことを通じて人の役には立っている→では、なぜ今の仕事で幸せになれないのか?

 

これについてもいろいろと考えましたが、答えは自分の特徴が長所にならない環境で働いているから、だと思います。

 

勤務中によく思っていたこと、それは「これ、自分がやらなくてもよくない?」ということです。実際には、ごく一部の「超」がつくほどの天才を除いて、ほとんどすべての人間にとって「自分にしかできない仕事」など存在しないはずであるにも関わらず、「自分がやらなくてもよい」という言葉が出てくるのはなぜか?自分が心中で発する言葉の意味が自分でもいまいち分かりませんでしたが、おそらく、「この仕事は自分がやらなくてもよい→自分の特徴を長所として活かすことができない仕事である→他に適任者がいるのだから自分でなくてよい→何か自分の特徴を長所として活かせる仕事はないのか→この環境にはそんな仕事はない→この仕事は自分がやらなくてもよい…」という悪循環にはまっていたんだろうと思います。

 

実際のところ、自分の長所を大雑把に言うと「思考する能力」だと思いますが、そんな自分がいた環境は「考えてはいけない、または深く考えるほど損をする職場」でした。お役所仕事にはだいたいあてはまるのではないかと思います。

 

ついでに言っておくと、職場での人間関係は良好だったので、その点は安心してください。

 

自分が死んだ後に何を遺せるか

もうひとつ、自分が死んだ後に何かを残せる生き方について。自分が死ぬときのことを想像すると、もしこのまま死んだとしたら、何も人の役に立つこともなく、何一つとしてこの世に残せるものがない人生だよなぁ…と思い、そう思った途端に死ぬことが怖くなりました。今の生き方を続けていくと、年を重ねるごとに後悔が大きくなり、死ぬときには「なんと無意味な人生だったんだろう」と思いながら死んでいくのだろうと思います。働くことの意味付けにも関連しますが、人間にとって最も大事なのは、自分自身の行為に対し、人生に対し、どんな意味を付加できるかということだと思います。何をするか、ではなく、その行為にどんな意味を持たせるのか。

 

農学校で1年間勉強した有機農法は、自分が死んだ後に残すに値するものだと思っています。有機農法って何だという話ですが…現在日本で営まれている農業のほぼすべては、化学肥料や農薬を使用する農法(慣行農法と呼びます)です。しかし、化学肥料の原料となるのは天然の資源で、いずれは必ず枯渇するものです。子供の世代まで資源がもつかはあやしく、孫の世代までとなるとかなりあやしいところです(「あと数十年」と言われていますが、ここ数十年間「あと数十年」と言われているそうです。でも、いつか枯渇するのは確か)。これに対して、有機農法は米ぬか、鶏糞、落ち葉など、資源を循環させることで米や野菜を栽培する技術です。そういう意味では、自分が死んだ後、何世代にも渡って残せるもの、残すに値するものとなると思います。

 

最近読んだ本に、こんなことが書いてありました。

私が13歳のとき、宗教のすばらしい先生がいた。教室の中を歩きながら、「何によって憶えられたいかね」と聞いた。誰も答えられなかった。先生は笑いながらこう言った。「今答えられるとは思わない。でも、50歳になっても答えられなければ、人生を無駄にしたことになるよ」

『プロフェッショナルの条件』(P.F.ドラッカー著、上田惇生・訳編、ダイヤモンド社)より

 
 

短期的な目標

ここからは現実的な話をします。

 

自分の得意なことで人に貢献するとは言っても、今のところそれをお金に換えるだけの能力が自分にはありません。

 

ひとまず収益化することを考えないのであれば、ボランティア活動をするものありかなと思います。週1日程度、貧困者のための野菜作りのボランティアをしようと思います。

 

とはいえ、ある程度のお金を入手できるようになる必要はあるので、人に貢献するためのスキルを磨いていきます。引き続き、野菜の栽培の勉強は続けます。通っていた農学校(スモールファーマーズ・カレッジと言います)の関係で、栽培するための区画を使わせてもらえることになりました。1年間習っていた先生たちに質問しながら勉強できる環境です。

 

2年後には何かしら人に伝えられるようになりたいと思います。それが野菜の栽培についてなのか、後述する半農半Xについてなのか、それも教えるという形態を採るのかは分かりません。人に貢献できて、自分が死んだ後も残るという意味では、教えるという仕事はいいなと思いますが。1年間野菜の栽培を教えてくれた先生が「野菜の栽培を始めて3年目から人に教えることになってしまって…」というお話をされていたので、それに倣って自分も3年目からと考えています。スモールファーマーズ・カレッジで1年間勉強したので、あと2年ということです。

 

あとはリタ起業塾というところで、起業について学ぶつもりです。スモールファーマーズ・カレッジで農業経営について教えている先生がされています。「リタ」とは「利他」から来ています。自分で会社を設立して…とかいうつもりは今のところはないのですが、起業に関することを知っておいたほうが人に貢献するための選択肢は確実に増えます。

 

まだ詳しいところまでは確定していませんが、ボランティアが週1日、野菜の栽培が週1日、起業の勉強が2週間に1日として、空いた日で当面の生活費くらいは稼がないといけません。できれば少しでも自分の得意なことを活かした仕事をしたいのですが、それが無理なら割り切ってお金目的の労働をせざるを得ないかもしれないとは思っています。自分の得意なことというと、インド料理と野菜の栽培少々というくらいでしょうか。難しそうですが、探してみます。

 

当面の生活費を計算

当面の生活費(月額)を計算してみました。

 

家賃    31,000円

光熱費 10,000円

通信費  7,000円(ネットなど)

食費    20,000円(自炊で1食200円として)

交通費 10,000円(主に電車での移動とカーシェア)

合計   73,000円

 

車は手放して、カーシェアを利用しようと思います。カーシェアというのは、レンタカーに似てるけどレンタカーより短時間の日常的な使用を想定したサービスです。月々の基本料と使った分だけお金を払えばよく、保険料とか車検費用とか駐車場代とかの維持費を浮かすことができます。計算してみると、今までは車に1か月あたり2万円くらい払っていました。

 

現在の生活から増減する経費(月額)

家賃   -14,000円

通信費   -5,000円(携帯のプランを安いのに変更)

食費   -25,000円(外食やコンビニが多かったので)

車維持費 -20,000円

交通費  +10,000円(公共交通機関とカーシェア)

勉強費用  +5,000円(リタ起業塾)

合計   -49,000円

 

あとは税金とか年金の類があるので、もう少しかかりそうです。

 

ただ、お金のために勉強する時間まで削っていてはジリ貧なので、変な話ですがあまり働きすぎないようにします。例えば、月収が10万円から12万円になったとしても、人に貢献するためのスキルが上がっていなければ、何も根本的な解決にはならないので。

 

中期的な目標

最後に、中期的な目標についてです。先ほど言葉だけは出てきた「半農半X(はんのう・はんえっくす)」という生き方を目指します。

 

半農半Xとは、字のとおり半分が農で、半分がXです。「農」とは自給用の食物を生産するような農的な暮らしです。「X」の部分には、人それぞれいろんなものが入ります。例えば、自給用の野菜を栽培しながら水道屋で収入を得ていれば、半農半水道屋です。

 

半農半Xについて書かれた本も一緒に送りますので、良かったら読んでみてください。この本には、こう書かれています。

 

(半農半Xとは)一人ひとりが「天の意に沿う持続可能な小さな暮らし(農的生活)」をベースに、「天与の才(X)」を世のために活かし、社会的使命を実践し、発信し、まっとうする生き方だ。

『半農半Xという生き方』(塩見直紀・著、ちくま文庫)より

 

半農半Xを実践するのに良さそうな場所が京都府綾部市です。綾部市は、長らく移住者の受け入れを市の最優先課題としている自治体です。それだけならさほど珍しくはないのですが、なんと住民の1割が移住者なんだそうです。さらに、綾部市と移住者たち(他地域から綾部に移住し、定住した人たち)が連携して、新規移住者の受け入れを推進しているようです(少なくとも外部からはそう見えます)。

 

ただ、実際に見てみないことには分からないので、2~3月に京都市で開催される「あやべ田舎生活実践塾」に参加してみます。定員20名ですが、綾部市長や実際に移住した方が来てお話されるそうです。それに加えて、(コロナの状況次第ですが)3月に実際に綾部を訪れて、移住者の人たちの話を聞いてみる予定です。

 

もし仮に自分が綾部に移住して半農半Xを実践できたとしたら、自分が新規移住を考えている人をサポートすることができるというのも良いところです。つまり、移住を通じて人に貢献できてしまうということです。

 

まだまだ漠然としていますが、将来的には、半農半Xを始めたい人をサポートする何かをやってみるのもいいかもしれないと思っています。そのために、自分が今の仕事を辞めて、引っ越して、勉強して、半農半Xを実現するまでの間に「これは問題だな」と感じたことはすべてメモして解決手段を考えることにします。将来、人を助けるときに役に立つはずなので。

 

長くなりましたが、以上です。金銭的な部分では不安しかありませんが、なんだかもう一度自費で大学生をやり直すような気持ちで、清々しい気分です。他にも自分が影響を受けた本を送ります。どれも大事な本なので、必ず返してください(笑)。

 

送ったのは、以下の3冊
『ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済』(影山知明・著、大和書房)
『半農半Xという生き方』(塩見直紀・著、ちくま文庫)
『苦しかったときの話をしようか  ビジネスマンの父が我が子のために書きためた「働くことの本質」』(森岡毅・著、ダイヤモンド社)

 

追伸

早速課題を見つけました。

・自分にとって本当に理想的な住居はない。

・不動産会社は不誠実。生活の基盤である「住居」を探すのに、不誠実な人間を頼らざるを得ない。

自分なりの解決手段を考えてみます。内装に凝りまくった半農半Xシェアハウスとかどうかなと思いますが、何年後になるか…。

 

現時点では

手紙部分はこれにて終了です。

 

自分がどういう形で社会に貢献していくのか?

現時点でもまだ曖昧ですが、この記事の中でも紹介している『ゆっくり、いそげ』の著者、影山知明さんの取り組みはモデルになり得るのではないかと考えています。

 

では、また書きます。

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