なぜ、「どこにもない家」なのか

この記事では、半農半Xシェアハウス「どこにもない家」という名前に込めた想いについて書いていきます。

 

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「どこにもない家」とは、ミヒャエル・エンデの小説『モモ』に登場する家の名前です。主人公であるモモが生きる世界においては、人間の時間を盗んで生きる「灰色の男たち」が強い力を持っています。

 

モモをとりまく世界は、「灰色の男たち」というきみょうな病菌におかされはじめています。人々は「よい暮らし」のためと信じて必死で時間を倹約し、追いたてられるようにせかせかと生きています。子供たちまで遊びをうばわれ、「将来のためになる」勉強を強制されます。

『モモ』(ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳、岩波少年文庫)訳者のあとがきより

 
灰色の男たちに追われるうちに、モモはある不思議な家へと導かれます。
 
それが「どこにもない家」、人間の時間を司る家です。

 

 

「時間がない」って何だ?

現代社会において、「時間がない」という言葉はよく聞きますが、そもそも「時間がない」とはどういうことでしょうか。

 

早速くどい話から入っています(笑)。いやしかし、これはおかしな話なんですよ。今も昔も時間は1日24時間、変わらず「ある」んです。

 

となると、何が足りないのでしょうか?

 

結論から言ってしまうようですが、

数字としての時間ではなく、「人間らしく生きる時間」がどんどん足りなくなっているのではないか

と私は思います。

 

「人間らしく生きる」って、なんだかモヤっとした表現ですね。

 

ちょっと具体的に考えてみましょう。

 

 

なぜ、わざわざ「非効率」なことをするのか

例えば、家庭菜園を楽しんでいる人がいます。趣味として、自給用の野菜を栽培しているわけです。

 

でも、実はこれって金銭的には非効率なんですよね。

 

というのも、野菜の栽培には、種や苗、支柱や防虫ネットなどの資材、土づくりのための資材、農機具などなど、意外とコストがかかります。そして、何よりも世話をする時間がかかります。

 

家庭菜園規模での野菜の栽培にそれだけの時間をかけるのであれば、同じ時間をアルバイトにでも充てたほうが多くの野菜を買うことができるはずです。

 

それにも関わらず、なぜ家庭菜園をする人がいるのでしょうか?

 

 

次に料理です。

 

「多忙」な現代人のために、インターネットや書籍などで様々な「時短レシピ」が提供されています。料理の質もなかなかのようです。

 

しかし、一方で(私自身もそうですが)料理に時間をかけることを厭わない「マニア」な人たちも一定数いらっしゃいます。そして、彼らはとても「便利」なはずの時短レシピにはあまり手を出そうとしないようにも見えます(私はSNSでインド料理マニアの人たちの投稿を見る機会が多いのですが、特に彼らからはそのような印象を受けています)。

 

なぜ、わざわざ時間と労力がかかるほうを選ぶのでしょうか?

 

結局のところ、答えはその人に訊いてみないと分かりません。もしかすると、訊いてみてもはっきりした答えは返ってこないかもしれません。

 

ただ、彼らはこれらの行為に

経済的な効率を超えた何らかの意味……豊かさのようなものを見出している

のではないかと思うのです。

 

 

時間を節約するほど人生は瘦せ細る

さて、ここで「人間らしく生きる」という話に戻ります。

 

私が考える「人間らしく生きる」とは、

経済的な物差しではなく、意味の物差しで人生を測り、かつそこにプラスの意味を見出せる

ということです。

 

自分の行為や時間、つまり「人生」に「意味」を求めるのは、動物の中でも人間だけの特徴です。

 

経済的な効率を追求することを否定はしませんが、それがために人生における「意味(「遊び心」と言ってもいいかもしれません)」が軽視されてしまうという結果を招いていないか、と思うのです。

 

先ほどの料理の話であれば、料理を作る時間すら惜しまなければならない人生はそもそも幸せなのか、ということです。

 

人間が節約した時間は、人間の手にはのこらない……われわれがうばってしまうのだ……貯めておいて、こっちのためにつかうのだ……

『モモ』(ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳、岩波少年文庫)より

 

時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとりみとめようとはしませんでした。(中略)けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして、人のいのちは心を住みかとしているのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです。

『モモ』(ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳、岩波少年文庫)より

 
実は、かく言う私自身も、「ニーズがあるみたいだし、時短レシピでも書いてみるか」と思い、ブログにいくつか記事を書いてみたのですが、やめてしまいました。とにかく、やっていて面白くない……まさにエンデの言う「生活がやせほそっていく」という実感があったのだと思います。
 
 

人生の豊かさとは、「時間をどう過ごすか」

何にせよ、その「生活がやせほそっていく」状況を作り出しているのは、人間です。

 

「じゃあ灰色の男は人間じゃないの?」
「いや、人間じゃない。にたすがたをしているだけだ。」
「でもそれじゃ、いったいなんなの?」
「ほんとうはいないはずのものだ。」
「どうしているようになったの?」
「人間が、そういうものの発生をゆるす条件をつくりだしているからだよ。それに乗じて彼らは生まれてきた。そしてこんどは、人間は彼らに支配させるすきまであたえている…」

『モモ』(ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳、岩波少年文庫)より

 
経済的効率を追求する中にあっても、「生産性ガー」「効率ガー」といったことを適用すべきでない領域があるのではないか、適用しない領域を確保しておくことが大事なのではないかと思います。
 
【後日追記】
最近、幸せと時間の関係を表現する秀逸な言葉に出会いました。それは、「時間を味わう」ということです。じっくり味わう対象である「時間」を「節約」していたのでは、「まだまだ足りない」という欠乏マインドが常に働くことになり、なかなか幸せにはなりづらいだろうと思います。

※ 「時間を味わう」という言葉は、『ゆっくり、いそげ』(影山知明著・大和書房)227ページより。本書では私が言っていることとは少し違ったニュアンスでこの言葉が使われているように思いますが、ここで私が言いたいことを表現するのにピッタリだったので紹介させてもらいました。この言葉に気づくきっかけになったのは、YouTubeでのライブ配信です。下にリンクを貼っておきます。「時間を味わう」の話は、31:10~になります。興味のある方はどうぞ。

 

 
 
モノやお金は、「幸せ」や「豊かさ」の必要条件ではあるが十分条件ではありません。また、幸せであるためにモノやお金がどれだけ必要かは、その人のライフスタイルによって変わります。
 
しかしながら、「時間」をどう過ごすかということは、すべての人間にとって、幸せな人生を実現するための必須要件だと思います。「時間」とは「人生」そのものです。私は、その「時間」を「節約」する人生に、まるで自分の人生を削るかのような恐怖を感じます。
 
モノやお金を得るための「効率性」は、自分が必要とする範囲で追求すればよいことです。しかし、経済的合理性がそれを許してくれないということは、現代社会においては多々あるように思います。
 
そこで、半農半Xシェアハウスがその状況を克服するための助けとならないか、と考えました。
 
時短料理に走るよりは、料理を作る時間をとれる生き方、
お菓子を買うお金があるよりは、お菓子を作る時間のある生き方、
「時間」によって幸せを手に入れる生き方
 
そんな生き方、
「時間の過ごし方」を大切にして生きていけるように…
という意味を込めて、半農半Xシェアハウスの名前を
「どこにもない家」
とします。
 
ここまで読んでくれたあなたに、いつかお会いできるのを楽しみにしております。
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